「「日中タングステン貿易の黎明期 Part 2」」

アドバンストマテリアルジャパン(株)
代表取締役社長 中村繁夫

   Part1 では初めて参加した広州交易会で成約したタングステン酸ソーダの品質クレームで苦しんだ思い出について書いたが、Part2 では失敗を乗り越えて長期契約に至るまでの成功ストーリーについて書かせていただきたいと思います。

タングステンの技術交流を進めてくれた「東京タングステン」と「日本新金属」 
 80 年代に入ると日本における精錬事業が円高傾向から経済性が無くなってきました。そんなことから「安かろう悪かろう」の中国タングステンが徐々に増加してきた時代でした。環境規制問題も厳しさを増していましたので中間物の輸入原料を検討し始めていました。ナトリウム塩よりも加工度の高いAPT(アンモニウム塩)を検討しましたが電顕写真で見ると結晶形が悪く本格採用には時間がかかりました。当時、中国からの訪日団を年に数回は受け入れましたが富山の東京タングステンでは中尾智三郎社長が精錬工程を開示してくれました。中国のAPT工場を訪問したときには技術指導が進みました。APTの結晶形が電顕写真を見て充分ではないので日本から撹拌器の部品を持って行ったこともありました。

 日本新金属でも板倉社長自ら技術交流に参加されて技術ノウハウを懇切丁寧に教えて頂きました。双方が定期的に訪問してお互いに現場まで入って何から何までオープンにし始めたのに僕自身は驚きました。

 江西省の冶金進出口公司の梁万成総経理と李盛安経理は特に親しくお付き合いさせていただきました。双方の信頼関係が構築されるのに時間はかかりませんでした。中尾智三郎社長も板倉社長も中国のタングステン産業の功労者であると思いました。

 タングステンと希土類やチタン分野でも有名な李東英院士や周廉院士は今でも交流がありますが日本の技術者が中国のタングステン産業に多大なる支援をしたことを感謝してくれます。でも中国も時代が変わり当時の日中の技術交流の歴史を知る人は今や有色金属研究総院の李紅衛さんぐらいしか居なくなったと思います。

 半導体分野でもアメリカのお蔭で日本の技術水準が画期的に発展したのも、中国のタングステン技術が日本の技術移転やノウハウの無償供与の結果として発展したのも同じことです。これからも切磋琢磨して両国のタングステン産業が発展してゆくことが大事だと思います。

冶金庁長官の馬凱長官と飛行機の中でばったり 
 タングステン取引が地方分権化から中央集権化し始めたころ良く福州から南昌を経由して北京に行きました。交易会で通訳をされていた女性の方が南昌から乗られて飛行機の中で偶然一緒になって機内にいた馬凱冶金庁長官を紹介してもらいました。交易会での取引だけでなく資源問題や環境問題や技術交流が重要性を増してきたときですから冶金庁や有色金属総公司との関係強化が重要になってきました。

 特に江西省は資源が豊富でしたが工場ごとに上部組織がバラバラでしたので安定供給を受けるためには北京政府の直轄下にある冶金工業部や有色金属工業部とのコネが必要であったわけです。機内で会った次の日には早速、馬凱冶金庁長官に会いに参りました。

1984 年の冶金公司と有色金属公司の大合同パーティー 
 1984 年5 月北京の人民大会堂で有色冶金工業部の設立式典がありました。それまでの中国では対外貿易部の傘下であった五金鉱産総公司が中心となってレアメタルやタングステンの輸出入をやっていました。しかし1984 年に有色金属工業部と冶金工業部を合併してレアメタルの海外へ輸出を一本化することになりました。当時の中国のレアメタル対外貿易額は全体として主に外貨獲得のための輸出としていわばレアメタルを飢餓輸出することで外貨バランスを保っていたわけでした。

 記念式典が始まりお決まりの乾杯の後、新規に設立された組織を代表して王崗総経理がスピーチを始めました。そのスピーチで「本日皆様方に重大なニュースをお知らせいたします」と多少緊張した面持ちで王崗社長が喋り始めました。「ご列席の日本代表中村繁夫先生と本日タングステンの長期契約をする新会社第一号の契約をただ今からサインいたします。」「中村先生壇上に上がってきてください」

 500 人ぐらいの列席された政府要人や関係者たちが一斉に第一号の長期契約を決めた若い日本人を注目しました。この日本人とは筆者のことであります。当時30 代半ばであった私は予想だにしなかった展開に驚きながらネクタイを直しつつ壇上へ上りました。今考えてみるとこの日の合併式典こそ中国が国家方針としてレアメタルに力を入れた時点であり中国が世界最大のレアメタル大国に成長するであろうことを筆者自身確信した瞬間でありました。

 私は当時専門商社の蝶理でレアメタルを担当しておりましたが、1979 年以来中国と取引を続けてきたわけであります。有色金属工業部と冶金工業部と言う2 つの巨大組織が合併するとはすなわち中国政府がタングステンを始めとするレアメタルの輸出政策の一元化に本腰を入れることを意味したわけであります。日本人が誰1 人としてレアメタルパニックを予期予測しなかったこの時期に資源大国である中国はすでに資源の確保が国家繁栄のための最重要課題であると認識をして資源対策を講じていたと言うことであります。

 日本は常に近視眼的な予測しかできないが中国は長期的にものを考える大国であります。歴史観が違うと言えばそれまでですがその結果として当時の日中貿易は日本への輸入が4000 億円で中国への輸出がわずか6000 億円だったのが、今や輸入も輸出とも約18 兆円以上に膨れ上がっているわけであります。対外貿易の増加に伴い中国の外貨保有高は今や3兆ドル以上の規模にまで膨れ上がり世界最大の貿易黒字国家に躍り出たわけであります。その後の中国の飛躍については機会があれば是非書かせて頂きたいと存じます。

   
 広州交易会で執務中            蝶理の中国貿易室の方々と


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