「日中タングステン貿易の黎明期T」

アドバンストマテリアルジャパン(株)
代表取締役社長 中村繁夫

   ただ今から中国とのタングステン貿易の歴史についてお話をさせていただきたいと存じます。今回はタングステンモリブデン工業会からの執筆依頼を受けまして、ちょうど私が1979 年の中国広州交易会に初めて参加したその前後からのタングステン取引の思い出についてお話を致したいと存じます。2018 年は日中平和友好条約締結の40 周年ですから意義深いことだと思います。

初めてのタングステンの契約は1979 年春の広州交易会
 日中平和友好条約がサインされたのが1978 年8 月ですが僕がその半年後に広州交易会で初めてタングステン輸入の契約を結んだわけです。

 田中角栄首相が周恩来首相と1978 年の秋に日中平和友好条約を締結する10 年以上も前に、実は日中友好平和条約の裏舞台では岡崎嘉平太さんが周恩来首相と一方ならぬ努力をしていたのは有名な話です。ともかく国交がないのですから何から交渉してよいのかが分かりません。ピンポン外交やパンダの話題で話をつなぎながら両国が仲良くしたほうが絶対に良いはずだとは思うのですが中国側から見ると日本兵には苛められたという記憶がある訳ですから直ぐに仲良くなれるわけはありません。

 ましてや文化大革命の影響の残っている1979 年に中国語も話せない32 歳の日本人商社マンがタングステンの取引を交易会席上で交渉するといっても今から思えばタングステンのことも全く経験がないわけですから並大抵ではありません。

 しかし何度も身振り手振りで話しているうちに気心も徐々に通じ合ってきて先ずはテスト的に5 トンだけタングステン酸ソーダを契約することになりました。素人ながら何事も苦労すれば何とか道は開けると言うことを経験させて頂いた次第です。

 当時の中国は文化大革命の影響がまだ残っておりまして広州の街に出ても大変貧困な雰囲気がしておりました。私自身はともかく中国側は「対外開放政策」と「地方分権化」を推進している訳ですから外貨を獲得するには中国の地方の工場に在庫が残っていたタングステンが手っ取り早かったのかもしれません。契約した公司は福建省化工公司で付秀龍さんという外国語大学出身の若手エリートでした。上司の孫経理さんは英語が分からないので直接の交渉はすべて付秀龍さんがやってくれましたが彼もまだ交渉ごとは慣れていなくて僕から日本やアメリカの話を聞くのが楽しかったように見えました。中国側の責任者から見ると僕が一生懸命やっていることは良く分かっていただいたようでございます。

 今から思えば当時の中国のタングステン資源の生産量は大したことはなかったと予想されました。現在では中国のタングステン資源の埋蔵量は62.1%で対世界の生産比率は83.2%と云われていますが1979 年以前の統計はまだはっきりしていなかったと思います。

戦前のタングステン取引を牛耳っていたのはロッキード事件の児玉誉士夫

 1979 年から1984 年までの5 年間はまさに中国貿易の黎明期でありました。1980 年から1989 年までの約10 年間中国のタングステン資源の開発に従事させていただきましたがクレームが多発したおかげで取引先の技術者の方と福建省から江西省、湖南省の各工場を回ることが出来ました。当時は外国人に未開放地域への訪問は禁止でしたが南昌市や株州市までは訪問が出来ました。三現主義(現場、現物、現実)が最後にモノを言うことを実感したのがこの時代の経験でした。

 実は当時から多くの先輩からタングステンの歴史を聞くことが出来ました。戦前の上海は魑魅魍魎の世界で中国大陸に産出する軍事物資の集散地であったらしく戦車や大砲の砲弾に使われるタングステン原料は上海に集まってきたようです。特に江西省や湖南省の鉱山から産出されるタングステン精鉱は児玉機関が取り扱っていたようです。その中でも一番面白い話が児玉機関(陸軍や海軍の外郭団体)が中国で軍事物資の集荷を任されていたという情報でした。児玉誉士夫氏はロッキード事件で有名になった右翼の大物ということですが、戦後最大のフィクサーにまで上り詰めた児玉誉士夫という人物は敗戦色が明確になった時にタングステンを始めとする軍需物資を金塊やプラチナに換えて朝日新聞のセスナ機で日本に運んだとしています。

 その後、児玉の隠匿した金塊を小菅刑務所で一緒になった岸信介に自民党の結党資金にすることを進言してから児玉誉士夫があらゆる分野でフィクサーになったとされています。

 意外なところでタングステンが日本の政治の原点というか資金調達の役割を担っていたことに驚きを隠せませんでした。当時の先輩から聞かされたこんな話が本当なのかどうかは分かりませんが中国との関係が大変深い話だと変なところで納得した思い出でした。

1980 年以降のタングステン輸入が増加したのは現地訪問が鍵だった
 さて1979 年に成約して納入したのがタングステン酸ソーダの5 トンでした。
 ところがこのタングステンの中からは煉瓦や木くずや布切れなどが出てきました。
 初仕事なので颯爽と日本無機化学の斉藤保社長(当時は専務)に報告に行くとなんだか雰囲気がおかしい。「中村君、まず中條工場長のところで品質の報告を聞いてくれ」と言われていやーな気がしましたが、案の定コンタミネーションの大事故で全量返品となりました。

 早速、福建省の化工公司の付秀龍さんにテレックスで返品交渉をするのですが、貿易公司としては品質問題なので対応できないので工場に直接連絡して欲しいと逃げるような返答が来ました。数量も少ないので残存価値を低くするので新規に5 トンの契約をして貰いたいとの返事である。事が事だけに仲裁機関である日本貿易促進協会に相談に行きましたが全く要領を得ず次回の秋の交易会で決着をつけてはどうかと素気無い対応でした。

 第一回目のタングステン取引からこんな調子ですから僕としては嫌気がさしましたが何事も我慢ということで日本無機化学さまには半値八掛けで引き取って頂き、次回の成約分も大幅値引きをすることで納得していただきました。

 その後も中国の取引は毎回のようにクレーム対応に時間を割くことになりました。今もクレームには「逃げない、現場直行、誠心誠意、解決するまで対応する」ことが一番早い解決法であることを勉強させて頂きました。

 初めて参加した広州交易(1979 年春)筆者は下の左

 1981 年大連の小交易会に参加(1981 年春)筆者は右端


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