「電球工業史と当社のルーツ」

株式会社ウイザップ偕揚社
代表取締役社長 加藤千昭

  当社は、祖父(山田義雄)が創立した会社と聞いていましたが、その起源に関しあまり多くの知識は持っておりませんでした。特に、社名の一部である「偕揚社」は、電球との関連性や、創立者の名前などと全く関連が無く、誰がどのような経緯で命名したのか不思議に思い、調べてみることにしました。
 最近では、国会図書館所蔵書などから、名前を頼りに簡単に文献を検索する事ができ、家族、親戚などの記憶と共に参考にしました。調べる中で、明治末期から大正、昭和初期の電球工業の発展を、大変興味深く思い、合わせてご紹介することにしました。

 祖父山田義雄は、1894 年に福井県大野郡で山田弥右衛門の6 男として生まれました。2 つ上の兄山田学而は、1907 年に15 歳で単身上京し、電球製造を志ました。1909 年には、はやくも山田電球製作所を虎ノ門辺りに設立したようです(1)。弟義雄は、兵役後の1911 年に上京し、兄を手伝いました。

 ご存知と思いますが、白熱電球は1879 年エジソンによって発明されました。国内では、1888 年に東京電灯会社が、エジソン・スワン会社より電球製造機一式を購入し、電球試作準備室を開設したのが最初のようです。
 米国の研究で、京都付近八幡の竹がフィラメントに適している事が判明し、日本最初の電球(1890 年8 月12日)もこの竹が使用されました。その後藤岡博士らが、1890 年に合資会社白熱舎を立ち上げ、これが後の東京電気株式会社(1899 年)、さらに東京芝浦電気株式会社(1939 年)、株式会社東芝(1984 年) となりました。

 1910 年に、GE会社研究所で、タングステン線を加熱しながら線引するDrawn Tungsten が開発されました。翌1911 年には、GEと技術及び資本で提携していた東京電気株式会社が、線引きタングステン開発を着手し、その後量産化しました。タングステン電球は、GEの名称として「Mazda(マツダ)」が使用され、GEと提携関係にあった世界の電球会社がこの名称を使用しました。マツダ電球は、耐久性、耐衝撃性で画期的な性能を有していたようで、大規模な火力、水力発電事業の開発と共に、電球市場の飛躍的な拡大に貢献しました。

 この市場参入を目指し、各地に多数の電球製造会社が立ち上がり、東京の山田電球製作所もその一つでした。1914 年頃に社名を東洋電球株式会社とし、巣鴨でタングステン電球を製造しました。前述のようにタングステン電球作りは、GEの技術が、東京電気株式会社を通じて国内に入ってきた関係で、国産技術で電球を製造する事は難しく、特許争いが発生しました。国産を目指す会社は、国産電球組合を作り、東京電気株式会社に対抗しました。山田兄弟の東洋電球株式会社は、関東電気と合
併し、1925 年に大同電気株式会社(社長は京成電鉄創始者の本多貞次郎)を設立し、国産電球作りを志向しました。特許係争は、導入線、ガス入り電球、垂直式電球製造装置など多くの技術で起きましたが、大部分は国産連合が勝訴し、国産電球製造の道が残されました(2)。

 しかしながら、マツダ電球の品質は国産に比べ圧倒的に高く、1930 年に、山田兄弟が所属する大同電気株式会社自身も東京電気株式会社の傘下に入ることになりました。昨年本誌寄稿の三和電気株式会社の宮崎社長も同様なご指摘があり、当時はマツダ電球が独占状態にあったようです。

 この流れに抵抗する山田兄弟はこの会社を退社します。そして、弟の山田義雄(私の祖父)が1928 年に東洋輸出電球工業所を設立します(3)。これが、当社の起源となる会社です。電球作りは諦めたと思われ、導入線の製造販売が主な活動であった様です。兄の山田学而は、1931 年に東洋真空株式会社を設立し、真空管の修理再生を始めました。第2 次世界大戦前の軍需産業として真空管市場が拡大したため、大多喜の天然ガスが活用できる千葉県の茂原に真空管工場を建設しました。この時、大多喜出身の第3 代理化学研究所所長の大河内正敏博士から各種指導を受け、1935 年に理研の名前のついた理研真空株式会社に改名しました。その後、軍部の指導により、日立製作所に吸収され、日立の茂原工場になりました(4)。山田学而はこれを不服とし、日立を退社し、戦後の1948 年に、理研真空株式会社を再度立ち上げました。この時代は、米国向けのクリスマス電球、装飾用電灯セットが活況で、この道を進み韓国、台湾にも工場を設立し、1959 年に山田学而は死去し、甥の山田秀治が理研真空を引き継ぎました。

 前述の理化学研究所の大河内博士は、弟山田義雄の東洋輸出電球工業所の改名も行い、それが「偕揚社」で、「偕で揚がる」を意味した名前と親戚内で言われています。戦後の1948 年に婿に加藤博(私の父)を向かえ、導入線以外に今後拡大が予想される2 輪、4 輪用電球のフィラメント事業を開始し、西五反田に本社工場を構えました。更なる拡大に対応するため1961 年に秦野に工場を建設し、「偕揚社」の漢字の意味を英語に当てはめ、「偕で共に(=With)揚がる(=Up)」とし、ウイザップタングステン工業株式会社を立ち上げ製造会社とし、株式会社偕揚社を販社と位置づけました。昨年2016 年に再度両社を合併させ、「株式会社ウイザップ偕揚社」とし現在に至ります。山田義雄は、1969 年に死去しました。

 福井から上京した山田家の兄弟は、若い頃から高い志を持ち、国産電球を目指しました。道半ばで大手会社に何回か吸収され、戦争末期には何回か工場を焼失し、それでもまた立て直し、次の時代に引き継ぎました。この様な精神力が、当社のルーツになっている事を、あらためて感謝し今後に繋げたいと思います。

参考文献
 (1) 工場通覧. 大正10 年11 月著者農商務省商工局工務課 編 出版者日本工業倶楽部
 (2) 1931 年8 月27 日 大阪朝日新聞
 (3) 東京輸出電球工業組合史 1942 年 
 (4) 茂原工場三十年史1974 年株式会社日立製作所茂原工場(神奈川県立川崎図書館社史室所蔵)


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